20年ほど前、友人との会話の中で
僕は中庸をめざしている、という言葉に何か引っかかるものを感じ、その違和感がどういうものなのか自分でもよくわからなかった。
中庸、というのは何方にも偏らずに、少し王道を往く、の意味に被るところがある、と解釈している。
身体や技術的に、ではなく
精神的に上手く、巧く成るというのは
少々のことに動揺しない、の意では無く
恐れから自由になることではないか、と思う。
動じないメンタルを目指してはいけない、ような。
真ん中を観るのでは無く
全てを感じる、愛する故に総てが愛おしいというか。
それが中庸の精神でなかろうか。
何を選んでも許される。
果たしてその境地を得たとき、
私にそこからいずれかを選ばせるものは
一体何なのだろう。
僕は中庸をめざしている、という言葉に何か引っかかるものを感じ、その違和感がどういうものなのか自分でもよくわからなかった。
中庸、というのは何方にも偏らずに、少し王道を往く、の意味に被るところがある、と解釈している。
身体や技術的に、ではなく
精神的に上手く、巧く成るというのは
少々のことに動揺しない、の意では無く
恐れから自由になることではないか、と思う。
動じないメンタルを目指してはいけない、ような。
真ん中を観るのでは無く
全てを感じる、愛する故に総てが愛おしいというか。
それが中庸の精神でなかろうか。
何を選んでも許される。
果たしてその境地を得たとき、
私にそこからいずれかを選ばせるものは
一体何なのだろう。
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