知る、ということは知らないことを知ることだ、とか
誰かとの出逢いは自分自身に出逢うことであり、出会った相手に自分を見い出すのです、、
とか。
寺院の門辺りに飾られているような一句だけれども、
まさにそうなんだな、という体験をしている。
ひとは誰しも海のような深い心を持っている。
海の深さを測るのが不可能であるように、その心の深さを測るのは不可能だろう。
気づいてしまったその「深さ」の前に立つ時、
海底に小石を投げ入れて、それがゆらゆら流されながら吸い込まれて行くのを見るように、
心もとない自分を痛烈に感じる。
必要以上に自分の海も共鳴、共振し始めるから動揺してしまうのかもしれない。
初対面の人に話しかけるのも全然平気だし、
自分にはあまり人見知りというものが無いほうだ、と認識していたので
意外な自分の反応に吃驚している。
じゃあ、ほかの人には、なぜ人見知りしないのか?
と考えてみれば、
自分の中で勝手にカテゴライズをして、ワカッタ気になっているだけか
その深さを真っ向から直視するのではなく、海を湛えるそれぞれの、傍に寄り添っているだけだから、だと思う。
あと、音楽をする人はその人の音楽を聴けば、その心が見える。
音色はその人の声そのものだ。
誰もが深い海を持っている、っていう事実を忘れていたんだな、と反省する。
それは、人物だけのことでもなくて
音楽もそう。
「知ってる」という感覚で、本当の美しさに何重かの余計な汚れを纏わせたままだったな、
と自分の感受性の鈍感さに改めて気づいた。
あはは
うちは進化しているのか
はたまた退化しているのか。
この自分でも驚くほどの不器用さは一般社会的、常識的には退化と呼ばれるのかもしれない。
自分のも含め、心に丁寧に生きようと思う。
soundというのは水深を測る、とか、クジラがもぐる、という意味もあるらしい。
ぴったりの言葉。
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