演奏には人間が顕れるという。
バッハやベートーヴェンなどの巨大な大きさを持つものでは当然、
クライスラーなどの小品を弾いても、また別の形でその人の持つ世界観が顕著に表れると思う。
歌う、カンタービレが苦手な人に、なんとかその方法を伝えようとして試行錯誤している際に気付いた。
結局。あなたが何を感じているか、その情熱が何も聞こえない。伝わってこないのが問題なんだと。
その感じ方は人によって千差万別で、伝え方もまた毎度異なるのが自然だろう。
バランスとセンス!
とか公には言いつつも、
わたしの中には時々、バランスなんて*****と
ケーッ、と思ってるツノと尻尾が生えたような自分が存在する。
上品、で留まっておけば良いものを、
自分の中には消そうと思っても
下品とも受け取られてもおかしくないようなガッツやパッションが無いとお話にならないぜ、みたいな。ファンキーな自分が。
ジャズで例えると
ビル・エバンスよりバド・パウエル。
エラ・フィッツジェラルドも好きだけど、サラ・ヴォーンも好き。
最近だとエイミー・ワインハウスという所だろうか。
クラシックで例えるのは、、怖っ、と思うのでやめておきます。
あはは
全然、ファンキーじゃ無いじゃん!
自分の「歌」を中心に世界を創る人と、
「作品」を活かす歌に自分を当て嵌める人と。
簡単に言うと、アメリカンスタイル、ヨーロッパスタイルと言えるけれど、事はそんなに単純でもない。
ユダヤ人は、独自の宗教やモノの考え方があるので、音程の取り方や自我の張り方も共通の独特のものがあるし、
アメリカで育ったロシア人はどうなんだ?と言われても分からない。
民族や文化、世代などだけでは割り切れない、きっと人間の魂。根源に関わる何か、の存在があるのだ。
歌が無いとツマラナイし、
歌に振り回される人は往々にして自己愛レヴェルの歌で終わってしまうことが多い。
上品、ノーブルと思われる人の中にも並外れた?規格外のパッションは存在する。
エネスコやクライスラー、イザイにティボー。ハイフェッツも。きっとフルトヴェングラー先生も。
昔の人はそうだな。
沢山、いるな、、と思ったら嬉しくなってきた。
でも彼らは決して下品ではない。
そのバランスはどこから?
作品への過剰過ぎるほどの愛。
それが無くては始まらない!
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