今年も和歌山、新宮でのコンサートが近づいてきた。
母が亡くなったのもこの季節、時期なので、暑くて遠い道のりは何だか
お墓詣りを兼ねているような気がしている。
未だ我が家の車はクラシックのミニなので、車中にクーラーが無い。
前の夜は川湯温泉で一泊するのだが、そこまでの道中、暑いだろうなぁーーー
問題が解けるのは、からんだ糸が解けるように、スルスルといくものらしい。
最近ようやくわかったことがある。
ひとつ見えてきたら、ああ、あれもそういうことか、と閃きが落ちてくる。
あんまり冴えているので、自分の死期が近づいているのか?と冗談っぽく思ってしまうけれど
まあ、それもアリかもしれない。
充分楽しかったし、悔いは無い。(もし、何らかの事があったらこれが遺言です)
もし神様が、あんたの人生の好きな時に戻してあげるよ、と言ってくれても、過去には戻りたくないなぁ。
あんな下手やった時代には戻りたくない、、、というのが正直なところです。
小学生の時に、もう今はお亡くなりになったヴァイオリニストの潮田益子さんにレッスンをしてもらったことがある。
潮田先生は私に「私たちは職人じゃないのよ。壁紙を貼ってるんじゃない。芸術家にならなければダメよ」とおっしゃった。
その言葉の真意は当時もよくわからなかった。
大人になって、私は日本の匠に精通した白州正子氏などの著作にハマったこともあり、
職人のどこがいけないのか?名人の域に入る職人は天候や素材の状態などわずかな差をも読み取り、完璧に仕上げる。それのどこがダメなんだ?と否定的に考えることもあった。
しかし、今なら何を仰りたかったのか、わかる。
音楽家、芸術家。美と確実性は縁遠い存在なのだ。
頭脳はインスピレーションを受信するために空けておかなくてはならない。
心、ハートはcantabile。
身体は隅々まで意識されている。
その状態でいて、美は一瞬にて通り過ぎ、常に変容していくものなのだ。
正解かどうかは、今となっては不明だけれども、
子ども相手に真剣に向き合ってくれた先生に、今になってより感激する。
凄いな。全開。
わたしも、誰かの魂に残るように
真摯に向き合わねば、と強く思う。
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