直感、もしくは直観というものが的を射ているのか、
その直感が真実を射抜く精度を磨くにはどうすればよいのだろう、というのが
ここしばらくの自分のテーマの一つだったりする。
長く一つの道に携わっていれば、
経験値がモノをいうだろう、と考えられるかもしれないが、
その長い経験や知識が逆に、自分のなかでの既成観念の壁、とはいわずとも、膜を張っているようなツマリ現象の原因だったりするから、厄介なものだ。
埃は日々、溜まっていく。垢とはそのようなものだろう。
いろいろ実験はしているけれども、
じぶんの感じでは、
それは精神だけでなく、身体の通気性にも直結しているということだ。
頭脳だけでも、ハートだけでも、
その埃の重さ、その「アイデア」が正解なのか、そうでないのかは判断しかねる。
身体はより、通気性がよく(要は身体の調子が良くなったり、見た目スタイルが美しくなったり、本来の人間の美しい姿へ近づくこと)なり、
精神的というか、頭や心では、色々考えたりする余計な時間が無くなり、意思が行為に直結している状態。
未だ探りながらだけれども、
たぶん、それがうまく焦点が当たって機能している感じじゃないかしら。
身体だけでも、頭や心だけでも、その直感(直観)は見つけられない。
閃きの重さは、小鳥の羽毛のような軽さであり、
日々我が身に降り積もる埃の重さといい勝負なのだ。
人が道を踏み外すのも、
輝きを増すのも、
それ自体には悪意も善意もない、羽毛のような軽さがキッカケになったりするのだろう。
そのアヤウサに気付かないのは
「常識」というものにかなりオカサレテ
感性に疑問符。
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